Why I'm me [tranescent]
こんにちは。
川崎市中原区武蔵小杉のセレクトショップ
tranescent(トレンセント)です。
11月17日はたくさんのお客様にご来店いただき誠にありがとうございました。
ゆっくり話せた方も、もう少しゆっくりお話ししたかった方もいらっしゃいます。
改めて、関わってくださる皆様に支えられているお店だということを実感しました。
このブログを読んでくださっている方々にも改めてお礼を申し上げます。
さて、本日は今更かよと思うかもしれませんが、
私の自己紹介も兼ねてなぜ今の私があるのかということに触れていきたいと思います。
また、どういうきっかけでファッションに興味を持ち、
どういう経緯でアパレルの世界に踏み込んだのかも記しております。
自身の振り返りとして書いたつもりです。
アパレルやファッションの業界に興味ある方にも読んでいただけましたらとても嬉しいです。
Why I'm me
今回のブログは私がファッションに目覚めたきっかけや、
なぜ今の自分があるのかということを、自分自身で振り返りながらご紹介していきます。
ありのままの私、達下(たてした)という人間を少しでも知っていただくきっかけになれば幸いです。
1985年7月11日生まれ、2024年11月現在39歳、血液型B型、一人っ子というスペックです。
Why I'm me -やんちゃな幼少期-
まず、私は母の親戚の多い長野県松本市で生まれ、
その後すぐに東京都の小平市に移ります。
ご存知でない方もおられるかと思いますが、東京の中でも比較的田舎出身です。
何にもないのが良いところで、住むのには不自由せず、
自然との距離が近いとても良い小平市で成人まで過ごします。
ちなみに、小平の宝である小栗旬さんは隣の中学校です。
さて、両親の影響を受け多くのスポーツを経験し、
0歳から水泳、幼稚園からは器械体操に打ち込む常にじっとしていられない子供でした。
幼稚園時代はとにかくやんちゃで落ち着きがなく、いつも親に怒られて、調子に乗ってました。
ざ・一人っ子で、自己中、うるさいと3拍子揃ったどこでも怒られている子供でした。
その時によく一緒にいた女の子になんの前触れなく、
「かずくん(私)はかっこよくないから一緒にいたくない」と言われ、人生初の失恋と挫折を味わう。
さらに、間違えて自分のコップを使った友達に
「なんで俺のコップ使ったんだー」と注意すると、コップで殴られ人生初の流血騒ぎになり額を3針縫う。
痛くて泣きましたが意外にも冷静で、美人の先生が抱きしめてくれたのがとても嬉しかったのは覚えています。
とはいえ、友達には恵まれた、たのしい幼稚園時代でした。
Why I'm me -運命のスポーツとの出会い-
そして、小学校に上がるのですが、幼稚園の友人は遠方で誰一人おらず、
同じ団地に住んでいた友達と一緒に登校していました。
小学校低学年の学校での記憶はなぜかあまりなく、水泳に打ち込んでいた毎日でした。
水泳教室は選手コースに所属し、今では絶対にありえないスパルタ教育でしたが精神力を鍛えられました。笑
うまくいかない水泳と、コーチとの軋轢から水泳が嫌になり始めた頃に運命のスポーツとの出会いを果たします。
そして、小学校3年性の時から念願のサッカーを習い始めここから大きく人生が変わります。
それまでは毎日放課後に校庭でみんな集まってサッカーをしていた程度でしたが、
ついに私は小平レインボーズの一員としてサッカー人生が始まります。
3年生からは毎日サッカー漬けの暮らしに。
Why I'm me -チーム競技の難しさを知る-
毎日平日の放課後は友人と集まって校庭でサッカー、休日はチームの練習の日々。
その当時も相変わらずに自己中であったため、うまくいかないとすぐ顔や態度に出ていました。
とはいえチームメイトのおかげもあり充実したサッカーライフを送っていたように思います。
しかし、小学5年生の時にクラスメイトと一部チームメイトからハブられる事になります。
原因は傍若無人な私にあるかと思います。笑
言いたいことを我慢せずに伝えたり、喧嘩もよくしました。
そして、女子からも嫌われるという始末。これがきっかけで女子が怖くなります。
これは、当時の文献からすると私の鼻がデカいことと鼻くそを穿っていたことが発端のようです。笑
子供って怖い。笑
この時に初めて人を思いやることが大切ということ
清潔感に優るおしゃれはないということを身をもって学んだ気がします。
当時は自分でもいまいちどうして良いかわからなかったため、
人生で初めて暗い人生を送っていました。
チームや団体の中で生きづらさを感じることで学んだ部分と、
自分自身はチームや集団生活に向いていないのでは、と悩むようになりました。
経緯は忘れましたが、学校で話し合いをすることで解決をしたような気がします。
話し合い後は少しギクシャクしていましたが、次第に自然な関係に修復されていきました。
Why I'm me ポイント:「笑顔と清潔感に勝るおしゃれはない、知らんけど」
Why I'm me -初恋-
そして、小学校6年生の時に初恋(なんでしょうか)を経験します。
一つ年下の方で、いわゆる、その学年の中ではキラキラしている子で、
幼少期から親同士が知り合いだったことと家がほぼ隣ということと、
同じ習い事をしていたため顔を合わす機会が増えました。
習い事で同じクラスになり、初めはちょっかいを掛け合う程度でしたが、
次第に習い事に一緒に行くために電話を掛け合ったり、なんてことない会話を電話するようになりました。
当然、今のようにスマホや携帯なんてありませんから、家の電話でコソコソ電話していたのが懐かしいです。
この頃から、サッカーのジャージを周りとは違うオシャレなものを着たい、
少し目立ちたい、という気持ちが芽生えたと思います。
わかりやすいですよね。異性からよく思われたいパターンで、オシャレに目覚める。
人と違うものを身につけたい、という気持ちと、
それを身につけることで自分のコンプレックスである
低身長と鼻のデカさをカバーしたいと思っていたのかもしれません。笑
また、6年生当時は、髪型をセンターパートにすることと、おしゃれなサッカージャージを着ることが、
我々東京の田舎民のステータスだったように思います。笑
髪を分けるために毎日ドライヤーを下から当てていた日々が懐かしいです。
Why I'm me ポイント:「周りと違うファッションで注目されたい」
Why I'm me -多感な中学時代-
そして、中学に進学すると、怖かった女子への恐怖心もなくなり、自然と会話することが多くなりました。
この頃は女子の友達もできましたね。
当然部活はサッカー部に入部し、毎日部活漬けでした。
入部当初は普通の練習はできず、基礎練とフィジカルトレーニングばかりで、スパイクを履くのにもトレーニングパンツを穿くのにも課題が与えられた厳しい部活でしたが、厳しい内容の成果として、先輩たちは都大会で4位に入るほどでした。
幸いにも私は課題を難なくクリアできたので、スパイクもトレーニングパンツもすんなり穿くことができ、
同学年の他の人たちよりも違う格好ができるということが嬉しかったように思います。
Why I'm me -人生初の彼女-
部活に勤しむなか、ずっと同学年のアイドル的な女子に憧れた私は中学2年生の時に告白を決意。
ちなみに、告白した時に初めて会話をしたくらい恥ずかしくて話せませんでした。
どう考えてもうまく行くはずないですよね。
しかし、まさかの返事は、、、OKとのこと。
めちゃくちゃ嬉しいけど自分でも彼女ができるという意味がわかっていなかったと思います。笑
付き合ったのに一緒に帰るのも恥ずかしく、何を話していいかもわからんしょうもない男でしたし、
「学校で会った時くらい手ぐらい振ってよ」と彼女から言われる始末。
おそらく、私は彼女としてカウントしてますが、向こうはカウントしていないと思います。笑
そんなしょうもなさが続き、彼女の誕生日にイルカのネックレスとピンクのTシャツをプレゼントするも、
別れましょうと突き返されてあっさり振られました。笑
なぜそんな謎のモノをプレゼントしたのか未だにわかりません。
国分寺の丸井に買いに行ったのが懐かしいです。そして、いまだに地元の連中にその件でいじられまくっています。
彼女には逆に良く付き合ってくれたよな、ありがとう!としか思えません。
Why I'm me -ついに服を自分で選ぶ-
その頃、国分寺に某ジーンズショップができて、サッカー部員の間で話題になりました。
めちゃくちゃおしゃれな店が国分寺にあるんだぜ的に通い始め、初めて自分で服を選ぶということを経験します。
確かPIKOのハイビスカスがバックプリントに入った、ラグランのフルジップパーカーです。
しかも、配色はホワイトベースで袖がイエロー切り替えのとんでもなくサーフでハッピーなパーカーを選びました。
それまでは親が選んだラルフローレンやJ .PRESSなど知らずのうちにトラッドやプレップファションをしていました。
せっかくオシャレだったのに、ハッピーパーカーで自爆していますね。
その後サッカー部と女子ソフトテニス部の集団デート的なものがあった時は
男子全員背中に竜の刺繍のついた信じられないくらいダサいスウェットにdjhondaのキャップを被り今はなき豊島園に行くという黒歴史です。
何事も初めは失敗がつきものですが、スタートの方向を間違えていた感は否めません。
Why I'm me ポイント:「当時のハイカラは後の黒歴史説」
Why I'm me -集団生活に馴染む-
中学3年時にはサッカー部の副キャプテンとなり、チームを動かす役割を担っていました。
紆余曲折ありながら、人が求めていることや自分の立ち振る舞いを考えるようになった結果、
集団生活の苦手さはいつの間にか克服していたようです。
周りの友人たちともなんやかんやうまくやって楽しい中学生活でした。
とはいえ、学年の1軍的な存在ではなく、2軍的な位置でそれはそれで伸び伸びやっていました。
Why I'm me -ファッションに目覚める高校生-
高校はこれまでと一変した生活が始まります。
制服のない私服の高校だったことと、もう少し都会の高校へ通ったこともあり、
当時末期ではあったものの裏原ファッションという言葉や、時代の流れに沿ったファションを知ることになります。
エイプ、シュプリーム、アンダーカバー、ステューシー、リーコン、ネイバーフット、サイラスやエクストララージなどのブランドをみんな着ていました。
PIKO を着て育った私とは全く異なるため、完全にカルチャーショックです。
私の格好を見兼ねた母に新宿のBEAMS(現BEAMS JAPAN)に連れていかれ、
STUSSYのデニムショーツと、スキッパーニットポロ、カウチンニットを買い与えられましたが着こなせませんでしたね。
今考えると、知らずにファッションは両親から影響を受けていたように思います。
そして、スマートやメンノンなどの雑誌を齧り付くように読んでいました。
雑誌を開けば今宿麻美さんやジュン=ヘイガンさん出ていて、ちんかめを全然興味ない風に装いがっつり見ていました。
古着のブームもあったので高円寺や原宿などにも行き始めるのもこの頃です。
初めての原宿はワクワクとドキドキだったのを覚えています。
Why I'm me ポイント:「当時のファッションの流行に触れ始めるノンシティボーイ」
-人と違うのが良い-
そして、自分がしたいファッションを模索した結果、
みんな着ていた裏原系やストリートではなく、トラッドファッションに回帰します。
父が着ていたラルフローレンや、母のハマトラの洋服と
古着を織り交ぜながら人と違うファションを楽しむようになりました。
この頃はうるさく前に出るのではなく、
ファッションという静かな主張をしていたんだと思います。
しかし、当時の私の高校はみんなと同じものが正しくて、
それからはみ出るものには容赦のないイジリと称した攻撃が飛んでくるため、再び集団生活に嫌気が指します。
我が道を行っていた私は当時デニムをリメイクすることにハマり、
パッチワークや軽石を擦って良く言えばグランジのようなデニムを作っていました。
そんな時パッチワークデニムに興味を持ってくれた下級生の方に依頼されて作ったところ、
とても喜ばれて、私はファッションで人に喜んでもらえるという経験をしました。
そして、私が初代リメイクしたパッチワークデニムが
明治公園のフリマで5000円で売れたことはめちゃくちゃ嬉しかったんですよね。
ファッションで表現をすることで理解されないこともありますが、
ファッションで共感を得て救われることもあるんだと感じたのは高校生の時でした。
この頃からうっすら、業界に対して興味を持ちますが、とりあえず大学へ行くことに。
Why I'm me ポイント:「人と違うことが良く感じる期」
Why I'm me -勉強しない浪人時代-
さて、大学受験を受けますが、現役は失敗します。
結果、立川の代ゼミに通うことになります。
ここでもまさかの出会いが。笑
初めは真面目は勉強していましたが、
やっぱりファッションを楽しみたい気持ちが強く、
予備校にも風変わりな格好をしていきます。
そうすると共感する連中が出てきて、
とても仲良くなるんです。笑
そんなファッション仲間の中には、某雑誌BEGINのグッチがいたのも面白いです。
のちによく仕事をする間柄になるんですからねぇ。
人生回り道もするものです。
そんなこんなで大学へはみんなギリギリ合格しそれぞれの道へ。
Why I'm me -本格的にファッションへ-
大学は東洋大学の文学部教育学科へ進学します。
一時期教員になろうと思っていたこともありますが、一瞬で向いてないなと思い、早くも断念。笑
教職単位が卒業単位になる教育学科は通常の学生の何倍も履修ができるんです。
そして、2回生まででほとんど卒単を取り、時間を作った私は、アパレルのバイトに明け暮れます。
それと共に友人がやっていたファッションサークルに入り、ファッションショーの真似事のようなことを始めます。
このサークルが面白く、ファッションが好きな人だけでなく、イベンター志望の人、モデル志望の人、映像関係志望の人、カメラマン志望の人、芸能関係志望の人など、いろんなジャンルのタマゴたちがいたことです。
みんな志があり、ファッションという共通言語を持って様々な解釈が集まる素晴らしい集団でした。
ここで私は完全にアパレル業界に進む決意を固めます。
アパレル界隈には熱量のある面白い人間が集まると思ったからです。
しかし、一概にアパレルといえどいろんな役割があるため、何をして良いのかわかりませんでした。
その当時バイトで販売をしていたので、全ての基本は販売にあるやろ!
と、謎の理論を持ってとりあえず販売員になる道を選択します。
Why I'm me ポイント:「自分に向けたファッションから外に向けたファッションに目覚める」
-モード全盛-
私の大学生当時はエディ=スリマンがDior hommeに就任したあたりです。
音楽はリバティーンズやストロークスなどのガレージロックを聴いていました。
そして、ラフシモンズ、エイプリル77、チープマンデイ、ギャルソン、ヨウジなどを着ていたと思います。
そして、毎日パーティーでもいくんですか、というような格好をしてましたね。
テーラードジャケットにスキニーパンツを穿き、パテントのポインテッドトゥのブーツを履いていました。
もしかすると人生で一番ミーハーだった時期かもしれません。
だって、モード全盛でそれ自体とてもカッコよかったけど、控えめに言っても全く似合っていませんでしたから。
後になって気づきましたが、自分がしたい格好と似合う格好は必ずしも一致しないんです。
体型や体格、それまで自分を形成してきた背景など含めて似合う物がどこかにあるはずです。
とはいえ、好きこそ物の上手なれだとは思っています。
Why I'm me -ついにファッション業界へ-
上述の通り、大学の残りの2年間はほとんどファッションに時間もお金も費やしました。
そして、就職活動はファッション業界一本に絞り無事に某企業へ就職。
その会社はポールスミスのメンズ部門を扱う会社でして、大阪本社ということで大阪へ移り住む決意をします。
(本当は当時の彼女が大阪に住んでいたからというのは内緒)
試験と思っていないマークシートを行い、なぜか一時試験をパスし、面接へ。
最終面接は当時の社長と行うものでして、面接直前にと記憶に残るやり取りをします。
男「なぁ、なんでここ受けようと思ったん?」
私「えっ、トラッドファション好きでポールスミス好きやねん」
男「ほうなんや、俺はランバンが好きやねんな、ええよな、ルカ(オッセンドライバー)のコレクション」
私「ん?この会社やってるのオンブルーやから、ルカのやってるラインはやってないで。」
男「まじか!あぶな!教えてくれてありがとう!!」
そして、いざ面接へ。
社長「何度も聞いて申し訳ないですが、なぜ当社を志望されたのですか」
私「はい、御社の展開されているポールスミス云々カンヌン」
社長「ありがとう、では次の方」
さっきの男「はい、実は私もポールスミスが好きで志望しました」
社長「ほう、ちなみにどんなところが」
男「はい、ポールスミスさんは業界をさられてからも尚、素晴らしいファッっs」
遮るように社長「いやいや、現役やから」
男「なるほど、そうでしたか、、では、、云々カンヌン」
そう、この男、ランバンは面接で使えないと分かってからポールスミスへ鞍替えして、失敗したのである。
あー、この人やらかしたなぁ、と思ったのですが、その後も飄々と受け答えしていました。
彼はええ奴やったけど、受からんやろなぁと思っていました。
しかし、まさかの同期初顔合わせで彼がいた時は衝撃的でした。
当時の面接官は私と、その彼を不採用としていたらしいのですが、
社長が「あの二人は採用や」という声があり採用が決まったみたいです。
なんで私が不採用なのかは置いておいて、
彼は自身がやらかしてしまったシーンでも冷静に対処したことを評価されたようです。
ちなみに、その彼今は西日本で一番名実ともにトップの店で店長をしているのですから、
当時の社長の目は正しかったということになります。
つまり、販売員に必要なスキルである、
コミュニケーションスキルと、冷静な判断力が備わっているという判断されたのでしょうね。
Why I'm me -ポールスミスへ-
ポールスミスはモードの側面を持ちながら、
アートや音楽に対する造詣が深い素晴らしいブランドなんです。
さらに、クラフトマンシップに対する理解も深く、洋服のクォリティや作り込みもすごいんですよ。
中身を覗いた私からすると、もっと日本で評価されるべきなんだけどな、と思います。
また、英国本国でポールスミスで働いているというと一目置かれる存在なんだそう。
ここまで日本と海外の評価が違うブランドも珍しいです。
話が脱線しましたが、ポールスミスに配属される前にいろんなブランドへ行くのですが、
BLACKER BY STEAVEN ALANというアメトラブランドに配属になり、ここでアメトラ好きが加速します。
スタンリーブラッカーというアメトラ御三家と呼ばれたブランドの派生ラインとして、当時UAと契約以前のスティーブン
・アランさんに監修をお願いしたブランドなんです。
そして、本配属先であったポールスミスもパリコレラインを扱うメインラインの店舗ではありませんでした。
大阪南堀江にあるジーンズショップというアメカジ要素の強いお店にいたこともあり、アメカジを齧り始めます。
Why I'm me ポイント:「ファッションの端くれとして自覚を持ちはじめる」
Why I'm me -師匠との出会い-
そして私のアメリカへの憧れを決定づける人との出会いです。
以前も紹介した大阪のサーフアンドテーラーモートの堀氏に出会い、IVYファッションに憧れます。
⇨SURF & TAILOR MOATのホームページはこちら
当時ポールスミスの隣のサーフ系のアメカジショップで働いていた、
堀氏からIVYだけでなくサーフやスケートカルチャーを学びます。
モードが好きだった頃からは想像できないほどリアルクローズが好きになりました。
仕事後はほとんど堀氏にくっついてファッションだけでなく、いろいろなことを勉強しました。
ポールスミスのブリティッシュファッションから入り、アメリカンカルチャーへ傾倒するきっかけです。
そして、ポールスミスを退社して、SLOWへと入社することへ。
SLOWへのきっかけも堀氏から教えてもらったブランドでもあったんです。
また、当時少数体制であったSLOWへ入社して、業界のことを深く学びたい、と思い転職。
Why I'm me -レザーの世界へ-
そして、2012年、卸一本だったSLOWが南堀江に直営店をオープンするということで、入社することに。
漠然と良い革を使ったブランドというイメージはあったものの、
中身を知ることで本当に強いこだわりを守り続けているブランドだと思います。
当時はディレクターFKD氏と、営業のIMJ氏、そして直営を担うFJM氏の元で働いていました。
お三方とも年齢だけでなく私より経験も知識も豊富でついていくことに精一杯でした。
特にFJM氏はお店をずっと動かしてきた方なので、接客から立ち振る舞い、
アパレルとしての考え方まで徹底して叩き込まれました。
めちゃくちゃ怖かったし、しんどいこともあったけど、今こうして私がアパレルに居続けられているのは
FJM氏の厳しくも温かい指導があったからとしか思えません。
それにしても怖かったなぁ。笑
今でも御三方は定期的にお会いしていて会社を離れてからもご指導や助けてくださる関係性に感謝しております。
Why I'm me ポイント:「ブランドに所属する誇りを持つ(社会の一員である自覚)」
Why I'm me -福岡の店舗へ-
2013年には福岡へ出店することが決まり、私が赴任することに。
任せられたからには頑張らないとと思いながらも、初めは本当に苦しい状況でした。
慣れない土地ということもありながら、
なかなか浸透しないブランドに焦りと苛立ちを隠せずにいました。
どうすればもっとよりよくブランドを九州の方に知っていただけるのか、
お店に来てもらえるのか、ということばかり考えていました。
転機はthoughtという九州でもものづくりをされている方中心の展示会でした。
日本でものづくりをしているという解釈で参加させてもらえないかと、
directorsのF氏にお願いすると、快く良いお返事をいただけて、参加させてもらいました。
Fさんその節は本当にありがとうございました。
うまくいかない状況に心が何回も折れながらも、なんとか行動することで兆しがみえ、
3年目でスタッフの頑張りと新加入もあり、個人的にはとても良いチームだったなと思っています。
福岡でも様々な出会いがありました。今では第二の故郷です。
福岡を立つ時は本当に寂しかったですね。
Why I'm me ポイント:「ファッションの難しさと、人の温かさを感じる」
Why I'm me -妻との出会い-
そう、実は妻と出会ったのも福岡なんです。
当時福岡の大名にSLOWのお店があり、
その目の前にあったインポートのショップで働いていたのが妻です。
同業であり、ファッションを志す中で妻とも出会うことになりました。
妻もファッションが好きで今も一緒に買い物をしたり、tranescentの洋服も着ています。
妻と生活する中で、これまでにはなかった感性や物の選び方をするようになり、
少しファションや考え方に幅が出たような気がします。
ファッションに対する向き合い方は変わりませんが、捉え方は年々柔軟に受け入れていかないとなと感じています。
Why I'm me ポイント:「ファッションを通し、伴侶を見つける」
Why I'm me -K J氏-
そして、もう一方、
私の福岡ライフを語る上で欠かせない人物がK J氏です。
福岡の右も左も分からない私を様々なところへ連れて行ってくださったり、
仕事と遊び方、人生の楽しみ方を教えてくれるような兄貴みたいな存在です。
そして、福岡の美味しい店はほとんどこの方から知ったと言っても過言ではありません。
また、KJ氏も元々アパレルに勤めていたこともあり、ファッションの中でもアメカジに精通していた方で
ファッションで繋がったご縁でもあります。
一時期はKJ氏の奥様よりも一緒にいる時間ががかったかもしれません。笑
tranescentの内装は氏の運営する会社である POSS COFFEE様に手掛けていただきました。
建築を手掛けながら、その発信の場として福岡と新宿でカフェを展開されておられます。
Why I'm me -再び大阪を経て-
さて、福岡の店舗が軌道に乗ると、新店舗として大阪へ戻ることに。
グランフロント大阪店の立ち上げに携わりました。
この頃にはSLOWはそれなりの規模感になってきていて、スタッフもかなりいました。
大所帯になってくると難しいのが、全員で同じ方向を向くこと、です。
一番身近な販売員が伝えることを通して販売ができないと、ブランドの世界観が薄まります。
その結果、お客様の満足度も下がります。
ブランドが世界観を作るのには膨大な時間がかかります。しかし、それが壊れるのは一瞬です。
そのことを肝に銘じながらエリアマネージャー勤めましたが、全然機能していなかったように思います。
自分たちと価値観が違いすぎるスタッフから反感を買い、反省する結果となったのは良い経験でした。
無理やり同じ方向を向かせるのではなく、寄り添いながらこちらに少しずつ向けていくことが
大切だったのだと思います。
時代は変わった。これに尽きると思います。
時代が変われば自分たちのやり方だけでは通用しません。
その時代に即したスタイルを柔軟に取り入れることは必要なのだと。
芯があるからこそ柔軟になれる部分も出て来なくては。
常に追いかけているからこそ、新しい価値観の良い部分を取り入れて進化していけるのでしょうね。
Why I'm me ポイント:「プライドチョモランマ期」
Why I'm me -地元東京へ-
さて、そうこうしているうちに、東京でPRをやらないかということで声がかかり、
帰京する事が決まりました。
新宿、自由が丘、鎌倉、横浜のエリアマネージャーとPRを兼務。
様々な角度からブランドを伝えていくことの難しさとやりがいを感じました。
新しいブランドの取り組みをスタッフに伝えていくこと。
そして、それを外部にもは発信していくこと。言うのは簡単なのですが、やると本当に難しい!笑
でもここでもいろんな方と出会えたし、
充実したファッションライフを送れていたんだと実感しています。
この時に先に出てきたグッチとよく仕事をしていたのは良い思い出ですね。笑
そして、この頃、自由が丘の店舗をセレクトをしながら運営させてもらっていたことがtranescemtにつながります。
SLOWという世界観をより深く発信する、というコンセプトを立て取り組んだものでした。
結果的には良いとは呼べませんが、自分自身が本当にやりたい事が見つかりました。
自分自身の足でしっかり立ち、たくさんのお客様とファッションを通して関わりたい。
Why I'm me ポイント:「ファッションを嗜む者から、ファッションを仕掛ける者へ」
-ファッションがもたらしたもの-
ファッションが私にもたらしたもの。
それはコンプレックスからの解放と自信です。
小学校5年生と高校時代はあまり良い思い出はありませんが、それらを救い出してくれたのがファッション。
そして、自分の居場所を見出せたのもファッションなんです。
さらに、振り返って思うことは、ファションを通じて様々な出会いがあったことです。
ファッションは外見だけおしゃれになることだけが全てではないんです。
外見からくる自身によって内面も磨かれていくことでもあると思います。
高い服やブランドものを着ることがファッションなのではありません。
確かに、権威的な側面もあるのでブランド志向や高い物を身につける事が悪いとは思いません。
しかし、ご自身の中にあるものや、モヤモヤを解放したり、解き放つことで表現することもファッションの一つです。
みんなと同じことは素晴らしいことです。それと同様にみんなと違うことも素晴らしいんです。
みんな違ってみんな良い。
こうして振り返ると、コンプレックスの塊である私がいかにファッションに助けられ、成長してきたかを実感します。
店頭ではこんなこと決して厚かましく語らないので安心していらしてくださいね。笑
-私の現在地-
私にとって、会社に所属していることはブランドに守られていると言うことです。
そして、守ってくれているブランドを発展させより良くお伝えしていく事が使命でした。
会社に所属して守ってもらえることは本当にありがたいことですし、心強いです。
反対に、その会社に所属する事がない限り、自分自身は何者でもなく、ただの達下和明です。
そのただの達下和明がどれほどファッションで人を幸せにできるか、試したかった。
これがtranescentを出店したきっかけです。
しかし、想像以上に甘くありません。
ブランドにどれほど守られていて、自身に力がないことをこれでもかと痛感させられました。
想像以上ではありますが、逆に知れてよかった。
今は自分やトレンセントと関わってくれる人たちに感謝しながら、
その人達にいかに楽しみや喜びという付加価値を提供していく事が大切だと思っています。
次の5年10年と皆様と良き時間を共有できる空間を提供したいと願っております。
いつも本当にありがとうございます。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
まだお会いしていないお客様もよろしくお願いいたします。
さて、
本日もご覧いただきありがとうございます。
ご試着お待ちしております。
また、何か気になられることや
ご質問はお気軽にお願いします。
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それではこの辺で。
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